春の養蜂作業

春から夏まで養蜂作業の佳境

動画でもこの様子を見ていただけます

毎週のように内見という作業を行う。

西洋ミツバチは家畜であるという。自然の中では淘汰されてしまう確率が高いけれど、

人間が手をかけることによって、群れを存続できて、数を増やすことが可能で、人間はそのご褒美として蜂蜜が採取できる。

もちろんミツバチたちのお陰で、ここ数年。葡萄は自家受粉できる植物だけれど、ミツバチおかげでの味が良くなったり、庭の様々な果樹も毎年鈴なりだ。

何よりもミツバチは農薬や、大気汚染などに大変敏感でミツバチが住める環境であるということは、私たち人間にとっても安全が保証されたようなもの。

庭のさくらんぼ スズナリになりすぎて枝が折れたほど

実は養蜂を始めようと思ったわけではない。ミツバチが住みに来てしまって仕方なくというのが本当のところ。

今から6年ほど前、いつも雨戸を締め切った窓の前を通るとブンブンと物凄い音。これは大変!と家の中に見にいくと窓の上方にミツバチの塊が!分蜂と言って、巣わけしたミツバチの群れが一時的に住みに来てしまったのです。

去年もそんなことが!動画はこちらから。ものすごい迫力です

すぐに近くの養蜂家に来てもらい一時的にポリスチロール製の養蜂箱に。その時に、場所もあるし、分からないことは教えてあげるから養蜂始めたら?という養蜂家のマウリツイオの勧めで主人の従兄弟、友達を巻き込んで始めたのがきっかけでした。養蜂を始めて約6年。当初は越冬できなかったり、分蜂してしまったり、病気にかかったり、試行錯誤の末今では8箱の養蜂箱になりました。

去年も窓にミツバチ。何故か我が家の窓は蜂に好かれるらしい

怖くないの?と言われますが、都会育ちの私最初は虫も蜂も嫌いでした。

でも田舎暮らしを始め、鳥ならば、スズメやハトだけでなくキジやみみずく、りすや、うさぎ、ハリネズミと言った可愛らしい動物だけでなく、蛇もネズミ、ヌートリアなども現れるサバイバルな我が家。今では蜂が可愛くてしょうがない。慣れとは恐ろしいものです。

越冬したミツバチたちは暖かくなって春の花が咲き始めると、蜜を集めて卵をたくさん生みはじめ群の数が増える。

女王蜂の世代交代が行われるのもこの時期。

そんな様子を動画にしたので、ぜひ見てみてください。

 

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話#4

我が家のバルサミコ酢の樽はイタリア統一、世界大戦と大きな歴史の流れを経験している。

サボイア家によるイタリア統一ではエステンセ公国は敗退、公爵はフォルニとその他の忠臣のみを伴い、オーストリアに亡命。

主人のひいひいおじいさんジュゼッペフォルニは公を支え、私財を投じて面倒をみたそうだ。

ジュゼッペフォルニ 若き日の肖像画

このジュゼッペフォルニについては、義父カルロが本を書いている。Amazonで好評発売中

体制が落ち着いた後、1930年代にファシズムが台頭するイタリアへフォルニ家は戻る。

その後第二次世界大戦ではモデナ県においても爆撃された建物が非常に多かったそうだ。

我が家はモデナ市の郊外の屋敷であったため、略奪や破損を受けることもなく、バルサミコ酢の樽は当主不在が長かった時期も、屋敷と領地を守る管理人に恵まれ屋敷と共に奇跡的に残った。

ここに定期的に通っていたのがパオロ大叔父。

というのもこの屋敷は作付け面積を決める屋敷で、気候が良い時のみ使われていたので、フォルニ家の者が常住していたことはない。

常住するようになったのは私たち夫婦が屋敷ができて約400年で初めてらしい!?

この叔父さんを含め、過去3代のフォルニは80年近くオーストリアに住んだ計算になるから屋敷の管理人がいなければ、樽は残ることがなかったはずで、ほぼ奇跡である。義父カルロの話によれば、オーストリアで幼少期を過ごし、ドイツ語のアクセントが強いパオロ叔父は、、バルサミコ酢に全く興味がなかったそうで、全て管理人任せ。屋根裏に放置したままだったようだ。

第二次世界大戦中は空爆で、家がなくなったノナントラの市民を何家族も住まわせていたこともあるという。

脳外科医としてのキャリアを積み、北イタリアを忙しく渡り歩いていた義父カルロが

1991年にパオロ叔父から屋敷と樽を相続した。その頃は管理人も高齢で不在となっていた。

屋敷の南東の屋根裏部屋が醸造室だったそうだ。

カルロが引き継いだ頃は、バルサミコ酢の樽の内部は液体の水分がずいぶんと蒸発して、ドロドロの状態。

底に溜まった澱の固まりをを取り除き、その当時フォルニ家のワインを作っており、樽を作ることもできたセルジョに見てもらいどうすればいいか聞いて、管理を始めた。

その醸造室を含め屋敷の状態はお世辞にもいいとは言えず、床が抜けた部屋もあるくらい老朽化しており、1997年に屋敷を大幅に改築工事を行い、

その際に現在の醸造室の隣に樽を移した。

移し替え作業の様子

もちろん、義父のカルロはバルサミコ酢の原料となるモストコットを作ったことはなく、セルジョに我が家のブドウで使って作ってもらっていた。

毎年春になると、屋根裏の醸造室まで必要量が届くのである。

これはまずバルサミコ酢の原料になるモストコットなるものを作るところから見ておく必要があるだろうと、当時モストコット作りをお願いしていたセルジョのところへ行ってみることを決めた。

結婚する前の年、2006年秋のことである。

続きます。

 

 

 

 

 

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話#3

それから2年後、結婚を決めたある日

「父が、将来的には僕たちがモデナの家のバルサミコ酢の面倒を見て欲しいと言っているよ。ピアチェンツァ出身の母は全く興味がなくて、一切手を出していなかったけど、モデナの伝統では女性がバルサミコ酢の面倒を見るというのが習わしだし、君色々作るの好きでしょ?」

とマックス(主人の名)が軽くいう。

どう見ても、あの何百年も経っている樽を管理するなんて、素人が今日明日にできそうな物ではない。というのは明確である。お義父さんそんなにあっさり、管理を任せるとは一体?!

元々この家宝の樽のセットは、代々引き継がれている物で、お義父さんのも叔父さん(未婚)から引き継いだ物。

沢山の方がフォルニ家は代々お酢の醸造を生業としていたのでは?と勘違いされるが、そうではない。

伝統的なバルサミコ酢の醸造は商売ではなく、趣味である。

現在で言えば、フェラーリやランボルギーニなどスーパーカーを所有するような物だ。

というのも砂糖が普及していなかったその昔、甘味料は蜂蜜か、モストコット(葡萄の絞り汁を煮詰めた物)。それだって大変高価で、庶民には高嶺の花。

そんなモストコットを原料とし、屋根裏部屋に何年も寝かせてお酢に変える財力があるというのは一握りの人たちだけ。富を象徴とする高尚な趣味だった。そのトップが1450年から1860年の間、現在のモデナ、フェラーラ、レッジョエミリアを統治した エステ公爵。

モデナのドゥカーレ宮向かって左のプラート塔が醸造室 写真はモデナ市の観光案内よりお借りしています

バルサミコ酢の品評会など社交界にて催していたという記録があるから、エステ公国の王族、貴族、上流階級の家柄がこぞってバルサミコ酢を醸造していたことは想像に固くない。またバルサミコ酢は、ヨーロッパの王室の贈り物として用いられていたことが、エステ家の公文書に残されている。

ドゥカーレ宮の醸造室 内側から鉄の閂が二重にかけられるようになっている

また、公爵が居住していたモデナのドゥカーレ宮のバルサミコ酢の醸造室は、公爵の身を隠す場所としても使われて、分厚い扉と大きな閂が今でも残っているが残念ながら、歴史の大きな波に呑まれ、バルサミコ酢の樽は現在残っていない。

とてつもなく分厚い壁

私が嫁に来た、フォルニ伯爵家はエステ公爵家の側近であり、右腕として外務大臣を勤めていた。モデナ屈指の旧家でその歴史は1100年代まで遡る。公の側近とあれば、バルサミコ酢の醸造室も当然の如く存在するわけである。公の右腕として長く外務大臣を務め、政治手腕に長けていたような家系だから、家の主人は仕事で留守。バルサミコ酢醸造は奥さんと使用人に、任せていたと思うのが妥当であろう。

この絵でも身分の高そうな女性が屋根裏のようなところから、バルサミコ酢を取り出している。

もちろん、小作人に年間に必要なモストコットの指示をして、持ってこさせるというスタイルだったであろうけれど

というわけで、マックスの女性が面倒見ていたというコメントはあながち間違ってはいないのである。

が、小作人制度などとうの昔に廃止された21世紀、家の中を見回しても使用人など誰もいない。

使用人が色々身の回りのことをお世話してくれるような時代を過ごしたのは、お義父さんが成人するくらい前の話であろう。もっともお義父さんも政治には全く携わらず、モデナーミラノートリノで脳外科医として働いており、バルサミコ酢も屋敷の管理人がいなくなって、仕方なくというような成り行きだったようだから、喜んで若い2人にお願いする。というそういう流れだったのである。

そこまで考えが回らなかった私は、浅はかだったのであろうか?

次回に続きます。

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話#2

2005年、クリスマス休暇をマックス(主人の名前)のモデナの家に招待してもらっていた。

縁と言えばいいのか、バルサミコ酢の醸造室を見せてもらった次の日に、お客様がいらっしゃると言う。

なんでも、バルサミコ酢の商工会の会長で、現在バルサミコ酢が置いてある場所とは別に、長年倉庫となっている場所をバルサミコ酢の醸造室として活用できるかどうか?と見てもらうために呼んだんだそうだ。

興味津々で彼のお父さんと彼(主人)について覗きに行ってみた。なんでも1800年代の終わりまで養蚕をしていた部屋だそうで、南側と西側の上方に10cm四方の小さな四角い穴がたくさん空いた壁がある。その広い事!22m✖️8m1番高いところで5m低いところでも25m。太い木の梁に支えられた木の屋根裏部屋、その上は瓦が乗っているようだ。そんなだだっ広いスペースに使わなくなった家具が放置してある。埃っぽい空間。その中に大きなワインビネガーが入った樽が2つ放置されている以外何もない。

バルサミコ酢の権威とやらは、

「素晴らしい!天井も高くて、断熱材は入っていないし、方向も南西、この穴も全方向にないから空気の流れはあるけれど、風が吹き抜けることもないし、完璧です。放置しておくのは勿体無い!是非醸造室として活用されたら良いですよ。」

と興奮気味に話していた。

その後、お父さんと息子たちは、やっぱり使わずに放置しておくのは勿体無い。バルサミコ酢の醸造室として使うなんて、そんなの誰がやるんだい。

そんな彼の家族の様子を横から眺めていたが、まさかこの数年後に、遠く日本から来た私がバルサミコ酢の醸造を一から始めるとは誰も想像しなかったに違いない。

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話 #1

伝統的な製法で作られたバルサミコ酢の出会いは、ちょうど主人と付き合い始めた2004年、ヨーロッパに住んで初めてのクリスマス。

当時ドイツに留学していた妹を訪ねて、ベルリン郊外の妹の友達のドイツ人の一家のおうちに招かれてクリスマスイブと、クリスマスを過ごし、妹は友人とどこかへ出かける予定があると言うし、クリスマスの飛行機代が格安で手に入ったから、クリスマスの夜にミラノに飛び、マルペンサからミラノの中央駅へバスで着く。

いつもよりずっと人通りのない夕方のミラノ中央駅。それもそのはず、なんとショーペロ(スト)で地下鉄、トラムは18時以降動いていないと言う。長蛇の列のタクシー乗り場に並ぶこと小一時間。

日本では1224日にクリスマスイブをなんとなく祝ったら、25日はどこもクリスマスツリーは取っ払われて、お正月飾りに代わるから、あまりクリスマスはどう言う日であるのか?移動がなぜ安いのか?など考えが至らなかったと言うのが大誤算だったわけである。

おしゃべりな運転手との世間話でショーペロするのがが正当(?)に思えてきた。

「そりゃ、ショーペロは当たり前だよ。クリスマスは家族と過ごすもんだろう。地下鉄やトラムの運転手だって、早退けして家族とゆっくり今夜は過ごしてるよ。俺だって、あんたで今日は最後だよ。家族が待ってるからねえ。あんたクリスマスにたった1人でかわいそうに。今外国から着いたんだろう?ミラノで過ごす家族はいるのかい?」と同情され、運転手の家まで引っ張っていかれかねない雰囲気だったから、「いやいやこれからイタリア人の家族と過ごすから大丈夫。見てこの大荷物全部クリスマスプレゼントよ。」と言っていたらやけに安心されて、空いてたからクリスマスプレゼントだよ!と低価格でミラノの家まで乗っけてもらった。

こんなミラノの家があった。小さな家だったけど、日当たりが良くて、居心地が良かった。Airbnbで貸していたけど、戻ることもなくなって売ってしまった。

実際は10世帯以上が入居しているアパートの住人がどこも留守という、バカンス時期のミラノの家で1人悠々と過ごしたのだった。

サッパリなドイツ語、ドイツ人ファミリーの中で散々クリスマスを過ごした数日間で疲れていたから、たった1人で過ごすのは開放感大だったと言うのが本音。

とはいえ、次の日列車でモデナへ

1人で過ごすクリスマス休暇は1人じゃかわいそうだから、うちにおいでよ。」と当時付き合っていた主人に誘われ、今住んでいるモデナの家に招かれていた。

モデナ駅まで、主人と義弟が車で迎えにきてくれて、その足で大聖堂のSanto Stefano(聖ステファノ)のミサに連れて行かれ、ヨーロッパ人はなんてミサに行くのが好きなんだろう。と感心したのだけど、それは敬虔なクリスチャンの家庭だからと言うのを結婚してから知った次第である。

1週間ほどモデナに滞在したのだけれど、その時お義父さんに、代々受け継がれているバルサミコ酢の樽を初めて見せてもらった。

今から20年近くの話ですから、日本にはシャバシャバした工業製品のバルサミコ酢なるものが入ってきたか,来ないかそんな当時。甘くて黒いイタリアの酢。くらいにしか考えたこともなかった私。どんなふうにバルサミコ酢を醸造しているかなど、考えもしなかった頃。

冬のモデナは、太陽の国イタリアの名前を返上したくなるような、濃霧。

400年前に作られたと言う重厚な煉瓦造りの建物の鉄階段を滑らないように上がり、観音開きの間抜きがかかった木の扉を開けた瞬間に、香りに圧倒される。

電気をつけなければ、昼間でも真っ暗な屋根裏部屋の中には、9つの大きな樽のセットが並んでいました。パッと見ただけでも、1020年と言う古さの樽でないとことは一目瞭然。

なんだか真っ黒な樽の匂いを嗅いでみてと言われ、恐る恐る顔を近づけると、立ちすくむような不思議な香り。お酢だと言うのにものすごく複雑な香りで、それまで私が食べたことのあるバルサミコ酢というものとは全く違うものがそこにはありました。

家の中に戻ると、小瓶に詰めた真っ黒な樽から採った真っ黒なドロリとした液体を味見させてもらいまたびっくり。ものすごい芳香と、優雅な甘さ、後から来る酸味。さらりと姑に200300年前から使っている樽だからね。と私の拙いイタリア語の理解で、年数を聞き間違えたと思い聞き返したら、どうやら間違いではないらしい。気に入ったかい?とお土産にバルサミコ酢の小瓶までもらったのが本物のバルサミコ酢を知った瞬間。

ここから人生が変わったのかもしれない。

続きます。

ワインビネガーとバルサミコ酢の話

ワインビネガーとバルサミコ酢は両方ぶどうから作ったお酢。

その違いは何かと言ったら糖分を残すか残さないかその違いがある。

ワインビネガーはその名の通りワインから作るお酢。

ぶどうの汁をアルコール発酵をさせてワインにしたものを、酸素と酢酸菌の働きで酢酸発酵が起こり、数ヶ月から1年ほどで出来上がる。

一方バルサミコ酢は葡萄の汁を煮詰める。と言う独特な作業があって、その葡萄液を煮詰めた汁の糖分の半分をアルコール発酵させて、酢酸発酵を樽の中で何年、何十年もかけてゆっくりと行うと言う違いがある。

その昔、葡萄は貴重なもの。バルサミコ酢はその貴重な葡萄を煮詰め、何年も熟成させられる財力がある王侯貴族など裕福な階層の人にしかできない特権で、一般庶民には見たこともないようなお酢だった。今でもバルサミコ酢造りは、モデナ人のステータスシンボルであることに変わりはない。

モデナを治めていたエステンセ公爵、その昔ドゥカーレ宮の塔の中に立派な醸造室を持っていた

ワインビネガーの話に戻る。裕福層の家庭においてもワインビネガーは必需品。我が家だって、バルサミコ酢を醸造しているけれど、普段の食卓にはワインビネガーを主に使う。日本にいる頃は、刺すような酸味のお酢と言う印象で、ワインビネガーが美味しいと思ったことが正直なかった。

開眼したのは自家製のワインビネガーを食べてから。うちに見学にいらっしゃる皆さんも「え、こんなにワインビネガーって香りが良くて、美味しかったっけ?!」とおっしゃる。

日本市場に出回っている葡萄酢をはじめとする果実酢の農林水産省が提唱している基準値を見て驚いたことがある。「醸造酢1Lにつき果実の搾汁として300g以上であるものをいう。 」え?70%は何が入っているの?!っと言う疑問である。うーむ

そりゃあ葡萄果汁100%でワインを作って、1年以上酢酸発酵をさせて作ったワインビネガーが美味しく感じる訳である。

古代ローマ時代はモデナは良質のワインビネガーの産地として有名で、モデナの酢と言う呼び名があったとか。ローマ軍の進軍にエネルギードリンクとして、水、酢、モストコット(葡萄のシロップ)を混ぜたものを飲ませていたり、古代の料理書の中にはとワインビネガーとモストコット、魚醤を混ぜて作るソースの話。保存食を作るための防腐剤の役目、清掃をするときなどに殺菌剤として使っていたりその用途は多岐にわたってていた。ペストが流行した時も、病人のいる部屋を酢で拭き清めること。なんて言う記述もある。

私たちも醸造室にワインビネガーは不可欠。

樽の清掃には、洗剤などは一切使えないから、ワインビネガーで樽の周りを清掃している。カビが生えるのを防止し、殺菌もできる上、醸造室の空気中に酢酸菌が増える。願ったり叶ったりというわけ。

樽の掃除中

新しい樽を使えるようにするにも、このワインビネガーを1年間樽の中に入れて置いて、余分なタンニンを取り出したり、木樽の中に酢酸菌を植え付ける目的。そんなわけで、ワインビネガーは何百L単位で醸造室に保管してあるのである。

秋にモストコットを作る時に、葡萄の果汁の一番搾りの良い部分はバルサミコ酢にとってから、残りを搾り取ったらワイン醸造タンクに入れてワインにしてしまう。春先になったら、ワインになった液体を醸造室の300Lのワインビネガー用の大樽に全て入れて、ワインビネガーにしている。

もったいない!と思われるかもしれないが、香りはいいけれど、飲むには酸味が強すぎる感があるので、少々料理に使うくらい。しかしワインビネガーにはとても向いている。バルサミコ酢もワインビネガーもどちらも発酵食品で、どちらにも捨てがたい魅力があるのである。このワインビネガーファンの友人に懇願されて分けることもあるけれど、今のところ商品化はしていない。というのも、ワインを継ぎ足し継ぎ足しで作っているので、発酵が常に行われているような状態で、瓶に移し替えても無濾過、無添加だと発酵が進み、澱がたまったり味が変化したり製品として安定していないから、研究が必要なのである。

今回ガラス製の大瓶で実験してみます。

樽で何年も続けて保存しているから白ワインを使って作っても黒くなる。何年も樽の中でミックスされて熟成されているから、味の深みが増したワインビネガーなのだけど、これをじゃぶじゃぶ樽の拭き清めに使っている。ワインビネガーで清掃した樽は外側もいい香り。

うちのワインビネガーファンの友人たちが知ったら、もったいなーいと騒がれそうだけれど、バルサミコ酢醸造というのは、そう言うところからして贅沢の極みなのかもしれない。

今週の動画はワインビネガーを作る動画を夫婦でご紹介します。

バルサミコ酢造りに関するそのほかの動画はこちらから

 

バルサミコ酢造りに欠かせない、母なる樽

春の作業、モストコットの濾過作業を先日終わらせたけれど、作業は終りではなく、

『始まり』

ろ過したモストコットは秋からゆっくりとアルコール発酵しており,

液体の糖分グルコースがアルコールに変わっている。糖分が28Babo14Baboになっていたので、生成したアルコール度数は約8度。

このアルコールに酸素と酢酸菌が働くと、酢酸が生成される。8度のアルコールからは約8度の酢酸ができる計算になる。

10年以上も年数が経てば酢酸菌は揮発性なので、減少することを考えると、熟成の樽に入れる前にある程度の酸度が必要である。バルサミコ酢は『酢』であるのだから酸味がなくては話にならない。

そんな訳で、そのまず第一段階として、秋に作ったモストコットがしっかりとアルコールを作っていなくてはならない。アルコールができるということは、その発酵の過程で、エステル類をはじめとする香りの素が生まれる。これはワインも同じ原理。モストコットワインと呼んでもいいかもしれない。これを大樽に毎月一回9月、10月まで半年かけて少しづつ入れていく。

昨日はそんな作業の1回目をした。

何故一気に入れられないのか?というと、バルサミコ酢になるためには、製品の特性である甘味の糖分を残してあるため、一気に入れすぎると、お酢に変化せず、酸味のない中途半端な液体が出来上がってしまう。

その味何と言ったらいいか、酸化防止剤の入っているワインを開栓して数ヶ月経った味とでも言えばいいのか、バルサミコ酢とは似ても似つかない味になってしまうので、とってもデリケートな作業。無論長年樽を使っていくことによって、ある程度耐糖性がある酢酸菌ができるらしく、餌を待つ燕の如くモストコットを酢酸発酵して、お酢になってくれている様子。

2020年に作ったモストコットはしっかりと一年この大樽で酢酸発酵をさせて、醸造室の1番大きい樽に入るのは2022年の春。この大樽から醸造室の小さな樽へと移し替えられるので、母なる樽と言われる所以。

この大樽は友人が経営するモンテプルチャーノのサルケートというワイナリーから譲り受けたもの

毎年移し替えてミックスされた一部が1番小さい樽に入るのは2026年というわけだから、本当に途方もないお酢なのである。

バルサミコ酢造りに関する色々な動画の紹介はこちらから

モストコットの澱は夫婦の絆

春には毎年、伝統的製法のバルサミコ酢醸造で使う、唯一の原料としてモストコット(葡萄の絞り汁を煮詰めたもの)を濾過作業をします。

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アルコール発酵しているので、濾過した後のモストコットはビンサント(デザートワイン)のような素晴らしい味と香り。アルコール度数としたら8度前後。

これを飲むことはせず、すぐにバルサミコ酢の原料として使うため、酢酸発酵専用の大樽へ何回かに分けて移し替えます。

というのも、このモストコット糖分が残っているので、ワインの酢酸発酵のようにワインに種酢を入れたらできるというような簡単なものありません。

多量の糖分は酢酸菌の働きを邪魔するので、バランスが崩れると酢酸菌が死んでしまい、酸度が生まれず腐敗に傾くこともあります。

バルサミコ酢は酢ですから、酢酸菌が上手に働く条件を整えてあげるというのが私たち醸造をする者の仕事。

毎年新しいアルコール度数があるモスココット(酢酸菌の餌になるというとイメージしやすいかもしれません)を追加してあげないといけないため、9月に葡萄の収穫をして、ゆっくりとアルコール発酵を行い、春には濾過作業をします。

去年の作業の動画です

もうこの作業は14回目。思い出深い年はなんといっても、息子が生まれた2013年。415日生まれたため、ばっちり濾過作業の時期と重なり、タンクによじ登るためどう考えても臨月は無理そう。

まあ2人目だし、産後大丈夫だろうとたかを括り、生まれてくる前日まで濾過したモストコットを入れる樽を掃除をしたりしてました。それを見た姑がすんごいびっくり。止められましたが、予定日1週間前で、長女は予定日過ぎて10日目に生まれ難産だったためもういい加減に出てきて欲しいから、やってるので大丈夫と働き回っていたら、次の日の早朝安産で生まれてきました。

この写真は生まれてくる12時間前

が、誤算はこの作業、かなり重労働。産後2週間後にやるもんじゃないというのが私の結論。流石に作業後、1日起き上がれなくなりました。

他人に任せたのでは色々な状態を見ないと納得したものにならないため、夫婦力を合わせないとできないバルサミコ酢。

まあ結婚生活もモストコットのようにオリも溜まれば香りも味も増す。バルサミコ酢のように年数が経って円熟したい物です。

今年の濾過作業の様子はこちらから

バルサミコ酢品評会のサンプル鑑定

バルサミコ酢品評会に向けての鑑定が今年も開始。2021年は第55回目の品評会。

第51回の品評会当日の舞台

私は日本人で唯一のA級の鑑定士だけれど、鑑定士で続けるためには、年間にある程度の数の鑑定しなくてはいけない。

マスタークラスを目指しているので、試験資格が出来るまでの3年間は最低でも年間60本のサンプルを鑑定が義務付けられている。

通常1000を超えるサンプルが集まる

コロナ禍で鑑定会はできないので去年から、試験管に入ったサンプルが番号を振られ自宅に届き、鑑定。

鑑定会であればだったら6人、私がテーブルについて、一点のサンプルについて、まず個人で鑑定を行い、その後そのテーブルで再審査をしますが、1人の場合はずっと黙々と鑑定をするだけ。時間的には会場に行く手間もないし好きな空き時間にできるわけで、議論しなくても済む。安定した点数もコンピューターに入力すれば完了

1本のサンプルにつきデータ入力まで大体20分弱で鑑定できるのだけど、集中して行う条件を作っていくのは結構難しい。

もちろんある程度の期間が空きすぎると間程度の感覚とは鈍ってくるし、点数にばらつきが出てくる。

それを防止するために、まずバッファーサンプルが送られてきて、それについて鑑定を行い、データを入力をした後どのぐらい自分に誤差があるのかというのがデータ化して届くなかなかよくできたシステムで、自分の鑑定で誤差が生じた部分を認識できる。(約30点ほど鑑定しました。)

今回送られてきた品評会の第一段階の鑑定のサンプルが先日届き、1ヶ月で31点のサンプル。

ただ孤独なんですよね。

やっぱり仲間の鑑定士といろいろなことを喋りながら家で頭入れて議論すると言うのもすごく面白いし、その場で鑑定の強さが実感できると言うのはとてもプラスになる。まそんな事をぼやきながら、今日も5つのサンプルを鑑定

お酢だけに、一度にそんなにたくさんのサンプルを鑑定することができず、サンプルによっては舌が麻痺するほど酸味が強いものもあって、水やクラッカーを口に含みながら鑑定します。

市場に出していない個人所有の伝統的製法のバルサミコ酢が大半を占めますから、作り手の事を考えると、適当に評価は下せない。バッファーサンプルより時間をかけて鑑定しています。

そんなわけで、今月いっぱいは第一次審査のサンプルを。これがあんまりなレベルなものが続くと、どんどん点数が辛くなる傾向があるので、注意しながら…。

来月になれば、第二次、第三次、そして決勝サンプルまで鑑定をしていきます。これは本当に面白いので楽しみです!

家庭菜園 その2

昨年からレイズベッド上げ底式の畑に切り替えた我が家。

その目的は庭で刈った大量の草や、枯れ葉の有効活用をすること。もちろん我が家には350Lのコンポストが2つあるけれど、全く追いつかないくらいの量が毎年出るのです。

紅葉の風情はあるけれど落ち葉掃除は大変…。

木枠を組み立てる作業

丸鋸で長さを切りそろえて、杭になる下の部分は三角になるようにして、アベンジャーのトールハンマー並みの大きな金槌で打ち込んでいく。

平でない地面に平になるように木枠を作るのが一苦労。ハンマーで杭打ちは汗だくの作業です。

やっと木枠ができたら、庭の木の剪定した枝、枯葉、枯れ草、炭なんかを敷き詰めて、そこにネコで何十杯も腐葉土を運ぶ。

剪定の枝、枯れ草を踏んで均一にしているところ

この土は長年庭の枯れ草や枯葉を山積みにしたところは腐葉土の宝庫。イタリアの田舎生活は、日本で触ったこともなかったネコ扱いも上達するおまけ付き!今なら平均台の上も渡っていけそうです。

そんな作業がやっと進んだある日

各レイズベッドに蛇口をつけて、自動散水設備を取り付けよう。と言い出す夫MAX

蛇口

ガーデン用品屋に行って聞くと、通常タイマーなどの散水システムは水道の蛇口に繋いで、その圧力を利用して散水できる仕組みだそうで、溜め水には利用できないとのこと。我が家の畑の周辺には付い堂の蛇口はない。100mほど離れたところに、古い井戸があるくらい。溜め水を作ったとして、手動式にしても高低差がなければ水は流れない。水道の水圧は通常0.25 0.3MPa。同じように30m以上の距離に一定の水量を短時間に散水するには同じ直径のホースを使った場合、理想として溜め水を5m!!の高さに上げないと無理だという。うーむ。

ぽとぽとと水滴が落ちる

必要なのはぽとぽと点滴のように水滴が落ちるようなシステムで、継続的な噴射のような散水は必要がない。各植物にゆっくりと落ちるようにすればいい。考えました。

まず、倉庫に転がっていた3000Lのポリタンク。以前葡萄畑を管理していたおじいさんが、水道がつながっていない倉庫に水を溜めていたもので、それを家族全員で運ぶ。

畑に近い少し高くなっているところに設置。井戸水を貯めて、改築工事に使ったあまりの水道の塩ビパイプ(これも倉庫に20年以上放置されてた)を繋ぎ、

長い長い水道の塩ビパイプ

各レイズベッドまで穴を掘り地中に埋めて、最後はレイズベッドの上を這わせる。途中途中、ガーデン散水用の細ーいチューブをドリルで穴を開けて取り付けて完成!

費用は1番お金がかかったのはこの大きなチューブを接続するジョイントの部分。かなりの数が必要でした。とはいえ1番かかったのは労力!

ここまで作るのにかかった時間は1ヶ月。もちろん沢山の野菜を植えました。

まあできることできること、毎日毎日食卓を賑わせてくれた野菜たち。もちろん我が家のバルサミコ酢と合わせても色々楽しみました。

動物性の堆肥を全く使用せずここまで採れるのか!というのが私の驚きの感想。そもそもこのレイズベッドを作るにあたって、「庭から出る大量の葉っぱや落ち葉を有効活用する」という目的は達成できたというわけです。

さて今年は2年目。随分減ってしまった土。落ち葉と枯れ草を入れ、また腐葉土を入れて野菜を植え始めました。

 

そんな動画はこちらから。しかし、畑仕事はいい筋トレになりそうです。