我が家のバルサミコ酢の樽はイタリア統一、世界大戦と大きな歴史の流れを経験している。

サボイア家によるイタリア統一ではエステンセ公国は敗退、公爵はフォルニとその他の忠臣のみを伴い、オーストリアに亡命。

主人のひいひいおじいさんジュゼッペフォルニは公を支え、私財を投じて面倒をみたそうだ。

ジュゼッペフォルニ 若き日の肖像画

このジュゼッペフォルニについては、義父カルロが本を書いている。Amazonで好評発売中

体制が落ち着いた後、1930年代にファシズムが台頭するイタリアへフォルニ家は戻る。

その後第二次世界大戦ではモデナ県においても爆撃された建物が非常に多かったそうだ。

我が家はモデナ市の郊外の屋敷であったため、略奪や破損を受けることもなく、バルサミコ酢の樽は当主不在が長かった時期も、屋敷と領地を守る管理人に恵まれ屋敷と共に奇跡的に残った。

ここに定期的に通っていたのがパオロ大叔父。

というのもこの屋敷は作付け面積を決める屋敷で、気候が良い時のみ使われていたので、フォルニ家の者が常住していたことはない。

常住するようになったのは私たち夫婦が屋敷ができて約400年で初めてらしい!?

この叔父さんを含め、過去3代のフォルニは80年近くオーストリアに住んだ計算になるから屋敷の管理人がいなければ、樽は残ることがなかったはずで、ほぼ奇跡である。義父カルロの話によれば、オーストリアで幼少期を過ごし、ドイツ語のアクセントが強いパオロ叔父は、、バルサミコ酢に全く興味がなかったそうで、全て管理人任せ。屋根裏に放置したままだったようだ。

第二次世界大戦中は空爆で、家がなくなったノナントラの市民を何家族も住まわせていたこともあるという。

脳外科医としてのキャリアを積み、北イタリアを忙しく渡り歩いていた義父カルロが

1991年にパオロ叔父から屋敷と樽を相続した。その頃は管理人も高齢で不在となっていた。

屋敷の南東の屋根裏部屋が醸造室だったそうだ。

カルロが引き継いだ頃は、バルサミコ酢の樽の内部は液体の水分がずいぶんと蒸発して、ドロドロの状態。

底に溜まった澱の固まりをを取り除き、その当時フォルニ家のワインを作っており、樽を作ることもできたセルジョに見てもらいどうすればいいか聞いて、管理を始めた。

その醸造室を含め屋敷の状態はお世辞にもいいとは言えず、床が抜けた部屋もあるくらい老朽化しており、1997年に屋敷を大幅に改築工事を行い、

その際に現在の醸造室の隣に樽を移した。

移し替え作業の様子

もちろん、義父のカルロはバルサミコ酢の原料となるモストコットを作ったことはなく、セルジョに我が家のブドウで使って作ってもらっていた。

毎年春になると、屋根裏の醸造室まで必要量が届くのである。

これはまずバルサミコ酢の原料になるモストコットなるものを作るところから見ておく必要があるだろうと、当時モストコット作りをお願いしていたセルジョのところへ行ってみることを決めた。

結婚する前の年、2006年秋のことである。

続きます。

 

 

 

 

 

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