それから2年後、結婚を決めたある日
「父が、将来的には僕たちがモデナの家のバルサミコ酢の面倒を見て欲しいと言っているよ。ピアチェンツァ出身の母は全く興味がなくて、一切手を出していなかったけど、モデナの伝統では女性がバルサミコ酢の面倒を見るというのが習わしだし、君色々作るの好きでしょ?」
とマックス(主人の名)が軽くいう。
どう見ても、あの何百年も経っている樽を管理するなんて、素人が今日明日にできそうな物ではない。というのは明確である。お義父さんそんなにあっさり、管理を任せるとは一体?!
元々この家宝の樽のセットは、代々引き継がれている物で、お義父さんのも叔父さん(未婚)から引き継いだ物。
沢山の方がフォルニ家は代々お酢の醸造を生業としていたのでは?と勘違いされるが、そうではない。
伝統的なバルサミコ酢の醸造は商売ではなく、趣味である。
現在で言えば、フェラーリやランボルギーニなどスーパーカーを所有するような物だ。
というのも砂糖が普及していなかったその昔、甘味料は蜂蜜か、モストコット(葡萄の絞り汁を煮詰めた物)。それだって大変高価で、庶民には高嶺の花。
そんなモストコットを原料とし、屋根裏部屋に何年も寝かせてお酢に変える財力があるというのは一握りの人たちだけ。富を象徴とする高尚な趣味だった。そのトップが1450年から1860年の間、現在のモデナ、フェラーラ、レッジョエミリアを統治した エステ公爵。

バルサミコ酢の品評会など社交界にて催していたという記録があるから、エステ公国の王族、貴族、上流階級の家柄がこぞってバルサミコ酢を醸造していたことは想像に固くない。またバルサミコ酢は、ヨーロッパの王室の贈り物として用いられていたことが、エステ家の公文書に残されている。

また、公爵が居住していたモデナのドゥカーレ宮のバルサミコ酢の醸造室は、公爵の身を隠す場所としても使われて、分厚い扉と大きな閂が今でも残っているが残念ながら、歴史の大きな波に呑まれ、バルサミコ酢の樽は現在残っていない。

私が嫁に来た、フォルニ伯爵家はエステ公爵家の側近であり、右腕として外務大臣を勤めていた。モデナ屈指の旧家でその歴史は1100年代まで遡る。公の側近とあれば、バルサミコ酢の醸造室も当然の如く存在するわけである。公の右腕として長く外務大臣を務め、政治手腕に長けていたような家系だから、家の主人は仕事で留守。バルサミコ酢醸造は奥さんと使用人に、任せていたと思うのが妥当であろう。

もちろん、小作人に年間に必要なモストコットの指示をして、持ってこさせるというスタイルだったであろうけれど…。
というわけで、マックスの女性が面倒見ていたというコメントはあながち間違ってはいないのである。
が、小作人制度などとうの昔に廃止された21世紀、家の中を見回しても使用人など誰もいない。
使用人が色々身の回りのことをお世話してくれるような時代を過ごしたのは、お義父さんが成人するくらい前の話であろう。もっともお義父さんも政治には全く携わらず、モデナーミラノートリノで脳外科医として働いており、バルサミコ酢も屋敷の管理人がいなくなって、仕方なくというような成り行きだったようだから、喜んで若い2人にお願いする。というそういう流れだったのである。
そこまで考えが回らなかった私は、浅はかだったのであろうか?
次回に続きます。