バルサミコ酢に出会って人生が変わった話#8

モデナの家に日本から来た親戚一同を連れて移動。

結婚式のパーティーは自宅でしたから、前日は大きな屋外テントが張られ、家の中もケータリングスタッフが準備に余念がない。私たち日本人チームは結婚パーティーの最後に、招待客に渡すBonboniere(ボンボニエーレ)の準備を始めた。

ボンボニエーレとはConfetto(コンフェット:アーモンドなどを入れて糖衣をかぶせた小粒の菓子)を工夫を凝らしてお洒落に包み、小さな飾りや置物などとセットにしたもの。感謝の気持ちを込めてパーティーの参加者に配る。マックスと是非日本とイタリアの文化の融合というものがいいであろうと、私たちが選んだのは漆の銘々皿。

中央に両家の家紋を入れたもの。包装には白石和紙を選んだ。宮城県白石市は母の出身地。

東大寺のお水取りの衣装のかみしもに毎年奉納されていた遠藤まし子さんという国宝級の方に、特別に漉いて頂いたものを使い、紅白の絹紐で結んだ。

この結婚式の前日にドレスが出来上がることになっており、17時に最終縫い取りを合わせ、取りに行くことになっていた。が、が、がである仕立て屋から電話、まだできてないって!!!

ともかく夜までに仕上げて家までお持ちします。という。この花嫁衣装、実は祖母の古い着物をリフォームし、ジャケットにはまだ染める前の縮緬を使い、友人のデザイナー、マリアナメンデツにその年の2月彼女のパリコレクションの展示会真っ最中に、会場まで行ってお手伝いをすることになっており、連日日本からのバイヤーの相手や通訳やら手伝い、夜コレクションが終わって後にデザインしてもらった曰く付きのもの。スペインから到着したマリアナ、ドレスが着てないことを知り、最終縫い取りはデザイナーとして付き合ってくれる。という

なんと仕立て屋が到着したのは22時!これは今でも日本人の親戚の語草である。

「もし気に入らない点があったら、はっきりいうこと!貴方の一生で一度の結婚式なのだから。プロの仕立て屋なら明日までに仕上げられるから心配はいらないのよ!」

と。デザイナーの立ち合いに加え、そんなコメントで震え上がったのは、ちょっとオネエぽい仕立て屋さん

「もう連日ヘルペスができるまで、頑張って作ったのよ。この絹はミシンで縫えなくて、手縫いが多くって大変だったのよお。だからこんなに時間が云々」

着物の幅は狭い。しかも日本の絹織物にミシンはほぼ不可能というのが最大のネックだったらしい。

5月に入ってから、天候が思わしくない。結婚式の当日5月5日の朝はお日様が現れた。式は18時からである。ノナントラの教会で式を挙げるのはルチアーノ神父。日本の種子島になんと20年もミッションでおられた方で、イタリア語と日本語で式をしてくださった。

が、結婚宣誓はイタリア語で言わなければならない。と当日に覚えて言えって言われても無理ですよ、マックスも僕も無理というそれじゃあ読んでいいよということで落ち着いた。

ほっとしたのも束の間。指輪の交換で、事もこともあろうに、マックスが差し出したのは右手!はめて少ししてから、私が気付き、突っついて教える。

やれやれこれで、終わりと思ったらいきなり日本語で、あかねさんのお父さんから一言どうぞ。驚いたのは父である。そんな話初めて聞いたのである。もうアドリブ、イタリア人にやられっぱなしであった。

そんな結婚式の様子はフォルニ家長男、サムライとの娘と結婚という写真入りので地元紙に掲載されたのである。

バルサミコ酢に出会って人生が変わった話#7

妹が2007年の421日に日本で結婚し、新婚旅行はゴールデンウィークを含めて有給を取り、留学先だったドイツを中心にヨーロッパを巡るという。だったらそれに合わせて結婚しちゃえば、丁度いいじゃないか!と日にちの設定をした。冗談のようだが、実際そんな感じで決めたのである。

驚いたのは両親で、こんな短期間に娘が2人結婚するなんて聞いたことがないと言って驚き、父など、紋付袴を2人の娘のために420日から510日までレンタルしっぱなし。という事態が発生したのである。

日本の親戚が妹の結婚式で一堂に会したが、唯一腰が痛くて長距離移動は無理と結婚式に参加しなかった、東北に住む母方の祖母には私とマックスで会いに行った。

この祖母は一般的なおばあちゃんとは違い、ベタベタ可愛がるようなおばあちゃんではなく、やるべき事はやる、筋の通った、ぐずぐずしているのが大嫌いな、私の大好きなタイプの人である。

うちのマックスを連れて行っても驚くこともなく、いったって普通。イタリアでは1番年齢の高い女性の主人は、1番尊重されるべきとされている。特に彼が育った環境は、おばあさんが同席の時は家族全員が食卓に座る時、おばあさんが座るまで、直立不動で椅子の横に立ち、食卓についてはならない。

お客が先に座る。男性が先という教育を受けた祖母にこれは感激だったらしく、照れたり慌てたりしたところなど見た事ないのだが、食卓に祖母が座るまでビシーっと起立して待っているマックスを見て少々慌てながら

「まあまあそれは、それはご丁寧に。うちの男性陣も少し見らわせないと」と照れて座っていた。

そんな祖母に

「あかね、結婚の秘訣は相手に期待しない事。色々大変だろうけれど、やってもらおうなんて思わず、全て自分でやると思っていれば間違いないから。頑張ってやらい!」

と気合の入ったお言葉を頂いたのである。

同じ時期に結婚した妹にはこういう事は言わなかったそうなので、異国に嫁ぐのは大変と思われた様。

今年100歳で健在だが、骨折をして車椅子になってからはこういう、気合の入ったコメントをしてくれないのは残念である。

妹の結婚式は、京都。すぐその足で新婚旅行へと旅立っていった。もちろん私たちも結婚式最後の準備にイタリアへ

両親、従姉妹、友人の一行が51日にイタリア入り

メーデーにイタリアに着いては絶対にいけない。

ミラノマルペンサ空港から直行する電車の駅、カドルナの駅はショーペロ(スト)で近年、見たことがないくらいごった返していた。地下鉄を始めトラムバスが18時以降運休。日本から持ってきてもらう様に頼んでいた結婚式で配るちょっとした引き出物を始め日本から様々なものを持ってきてもらったので、皆大量の荷物である。

うちの父は、痩せ型、眼鏡にジャケットヨーロッパ人がイメージする日本人像そのままらしく、イタリアのどこにいってもスリの標的になる。狙われてる気をつけて!と言ってる瞬間に、あっという間にスリにアイスクリームをなすりつけられる。怒声をあげて追い払う私。物乞いの子供にも寄ってこられる。こんな最悪の状況になったのは後にも先にもなし。従姉妹の小学生の息子はもう怖くなって、目が見開いたまんま。これがもとで成人した現在も、海外旅行には行きたいと思わない。と言っているため大変なトラウマを植え付けてしまった。ごめんね。

タクシー乗り場は長蛇の列。平気で私たちの前に横入りするイタリア人。

ここでもまたものすごい剣幕でイタリア語で叫ぶ私。黙ってたらいつまで経ってもタクシーなんかに乗れやしない。

親族を2台のタクシーに押し込み、行先を伝え、メーターを確認させて、一路ミラノの家へ。親戚一同このとんでもない状況の中、

「あゝなんてたくましいんだ。自分は絶対無理だけど、これならあかねはイタリアで生きていかれる。と安心した。」と後日各々が語っているため、何が功を奏すのかわからないものである。

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話 #6

樽職人ミゼッリさんが帰った後から、マックスと2人結婚式の準備と並行して、醸造室の構想を練って行ったのである。

この頃まだ気づいていなかったが、うちのマックスは大は小を兼ねる、期間は10年先とともかく何をやるにも毎回計画が壮大&長期。

せっかくやるなら、醸造室の面積は有効活用しよう!

最終製品が取れる量から考えたら、32セットが妥当。160樽が必要だ!

最初に入れるワインビネガーも必要だから、醸造タンクもいるな!

家宝の樽もこのスペースに移そう。

CADで醸造室の設計図を作り、左官屋と連絡を取りはじめた。

「結婚前のいや、醸造を始める前の夢いっぱい時期()」を過ごしたのである。

もちろん結婚祝いにには「樽調達資金」という資金調達集めの親戚代表と友人代表も決め結婚、新婚旅行が終わった早々に樽屋から手配し、夏から本格的に始動できるように決めた。

何かを製造するには、日本であれば保健所に届けを出さなければならない。イタリアだって食品衛生法に基づいた企画があるはず。

一から醸造室を手がけるならば、手を入れる前に保健所に問い合わせをすべきではないか?と提案した。

 私はこういうことが気になってしょうがない。というのも、家政学部卒業後、国家試験を受けて、管理栄養士になり、企業の社員食堂へ勤めた。併設のクリニックがあったので、社員の栄養指導、メニュー作成はもちろんのこと、衛生管理者として、毎日1000食を越す大量給食施設の管理をしていたため、食品の製造=食品衛生法が染み付いていた。

そんなわけで、イタリアのバルサミコ酢の醸造室を作るための食品衛生基準法を調べ、イタリアではASL(Azenda Sanitaria Locare)と呼ばれる保健所に問い合わせて計画を進めていった。

樽と床からの距離、壁、床の色、流し、手洗い場の有無、将来的な瓶詰め施設、検査室の有無などそう言う基準がやはりあった。例え販売を行わなくともどのみち、リフォームをしなければならないのだから、少々面倒でも条件を満たす様に作ろう。

子供が生まれてからも、自分たちでよりよく使えるように壁や床の塗り替えもやっている。

まず何はなくても大型の流し台と、醸造室の一部にホースがつなげる給水栓と、水を使う場所はタンクの洗浄などで、大量の水が流れても大丈夫なように、床の高低差を考えてた床掃除のしやすさなどは規定になくても絶対に欲しい、などなど

プロジェクトは自分たちで全て考えて、左官屋さんにお願いをした。

もちろん壁のペンキ塗りや、網戸付けなどできる事は自分たちでやった。

網戸も手作り

気が早かったかもしれないが、最初から計画しておいた事で、

後々醸造室の登録がスムーズに完了した。

バルサミコ酢造りの様子を動画で紹介しています。

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話 #5

年が明けてからモデナにあるエノロジカモデネーゼエノロジカモデネーゼという樽屋を訪ねた。

樽職人さんミゼッリさんとの出会いである。

子供の頃からお父さんの仕事を見て覚えたという、今では数少ない叩き上げの職人さんだ。70代というところか?バルサミコ酢の醸造について細かく、しかも科学的に教えてくれた。それだけではない、バルサミコ酢に傾ける情熱をも伝染させてくれたのである。

図を書きながら、説明してくれた。すると

未だに説明書きのメモがとってある

「貴方は生物学とか、微生物学を勉強したことがあるでしょう。」というのである。

「わかりますか?大学では微生物学もやりましたけど、専門は栄養学や、食品化学を勉強しました。」

というと、

「話にちゃんとついてきてるものそりゃわかるよ。貴方もっと知りたかったら、スピランベルト市にあるバルサミコ酢愛好者協会の主催する講習会に参加すると良い。残念ながら今年は講習会は始まっているから来年にでも是非参加しなさい。」という。

「貴方たち商売としてバルサミコ酢を作るのかい?早く稼ぎたいと思って始めるのかい?」

とよくわからないことを言うのである。

マックスが

「我が家には先祖代々伝わる樽があって、出来るだけ、伝統的な製法にのっとって、良いものを私たち夫婦の趣味で作りたいと思っている。本当に良いものは100年かかるでしょう。」と答えると

「人任せでなく、自分たちで作るんだね。」

満足そうに頷いて、

「それならば、新しい樽を買ったら、ゆっくりワインビネガーを樽に入れておきなさい。そしてそのうちにこちらのお嬢さんはしっかり勉強すると良い。」

と、まずは一度醸造室の場所を見にきてくれることになった。

早速次の日にミゼッリさんは我が家にやってきた。

まず、漏れのある家宝の樽の状態を見てもらい、修理が必要があるという。手で愛おしそうに樽の全体を触り

「こんな樽はおそらくまだ子供の頃、僕のお爺さんが仕事していた頃に見たことがあるくらいのものだよ。見てみなさい、このタガは鍛冶屋が一つづつ、手で打ったもので、こんな鉄のタガは今はないよ。こういう作り方をしたものは、錆も出ない。今ではこういうものは作れないんだよ。これは1800年代の前半いや、もっと前のものかもしれない。中が二重になっているから、中の樽は一体何年経ったものかわからないくらいだよ。ともかく大事にしなさいこれは歴史の遺産だから」と舅やマックスにではなく、私にしみじみ言った。

モデナのガラスと呼ばれた緑色のバルサミコ酢の樽の栓として使われていたもの。こちらも100年を越すものである。

これから新しく醸造室と思っているスペースを見てもらうと、

「これは良い醸造室になる。楽しみだ。この醸造室を見てあなたたちが伝統的なものにこだわる理由もよくわかったし、趣味で急がずに良いものを作りたいというのがわかったよ。良い樽を揃えさせてもらうよ。」と言い残して帰っていった。

続きます。

バルサミコ酢造りを動画で紹介しています。

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話#4

我が家のバルサミコ酢の樽はイタリア統一、世界大戦と大きな歴史の流れを経験している。

サボイア家によるイタリア統一ではエステンセ公国は敗退、公爵はフォルニとその他の忠臣のみを伴い、オーストリアに亡命。

主人のひいひいおじいさんジュゼッペフォルニは公を支え、私財を投じて面倒をみたそうだ。

ジュゼッペフォルニ 若き日の肖像画

このジュゼッペフォルニについては、義父カルロが本を書いている。Amazonで好評発売中

体制が落ち着いた後、1930年代にファシズムが台頭するイタリアへフォルニ家は戻る。

その後第二次世界大戦ではモデナ県においても爆撃された建物が非常に多かったそうだ。

我が家はモデナ市の郊外の屋敷であったため、略奪や破損を受けることもなく、バルサミコ酢の樽は当主不在が長かった時期も、屋敷と領地を守る管理人に恵まれ屋敷と共に奇跡的に残った。

ここに定期的に通っていたのがパオロ大叔父。

というのもこの屋敷は作付け面積を決める屋敷で、気候が良い時のみ使われていたので、フォルニ家の者が常住していたことはない。

常住するようになったのは私たち夫婦が屋敷ができて約400年で初めてらしい!?

この叔父さんを含め、過去3代のフォルニは80年近くオーストリアに住んだ計算になるから屋敷の管理人がいなければ、樽は残ることがなかったはずで、ほぼ奇跡である。義父カルロの話によれば、オーストリアで幼少期を過ごし、ドイツ語のアクセントが強いパオロ叔父は、、バルサミコ酢に全く興味がなかったそうで、全て管理人任せ。屋根裏に放置したままだったようだ。

第二次世界大戦中は空爆で、家がなくなったノナントラの市民を何家族も住まわせていたこともあるという。

脳外科医としてのキャリアを積み、北イタリアを忙しく渡り歩いていた義父カルロが

1991年にパオロ叔父から屋敷と樽を相続した。その頃は管理人も高齢で不在となっていた。

屋敷の南東の屋根裏部屋が醸造室だったそうだ。

カルロが引き継いだ頃は、バルサミコ酢の樽の内部は液体の水分がずいぶんと蒸発して、ドロドロの状態。

底に溜まった澱の固まりをを取り除き、その当時フォルニ家のワインを作っており、樽を作ることもできたセルジョに見てもらいどうすればいいか聞いて、管理を始めた。

その醸造室を含め屋敷の状態はお世辞にもいいとは言えず、床が抜けた部屋もあるくらい老朽化しており、1997年に屋敷を大幅に改築工事を行い、

その際に現在の醸造室の隣に樽を移した。

移し替え作業の様子

もちろん、義父のカルロはバルサミコ酢の原料となるモストコットを作ったことはなく、セルジョに我が家のブドウで使って作ってもらっていた。

毎年春になると、屋根裏の醸造室まで必要量が届くのである。

これはまずバルサミコ酢の原料になるモストコットなるものを作るところから見ておく必要があるだろうと、当時モストコット作りをお願いしていたセルジョのところへ行ってみることを決めた。

結婚する前の年、2006年秋のことである。

続きます。

 

 

 

 

 

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話#3

それから2年後、結婚を決めたある日

「父が、将来的には僕たちがモデナの家のバルサミコ酢の面倒を見て欲しいと言っているよ。ピアチェンツァ出身の母は全く興味がなくて、一切手を出していなかったけど、モデナの伝統では女性がバルサミコ酢の面倒を見るというのが習わしだし、君色々作るの好きでしょ?」

とマックス(主人の名)が軽くいう。

どう見ても、あの何百年も経っている樽を管理するなんて、素人が今日明日にできそうな物ではない。というのは明確である。お義父さんそんなにあっさり、管理を任せるとは一体?!

元々この家宝の樽のセットは、代々引き継がれている物で、お義父さんのも叔父さん(未婚)から引き継いだ物。

沢山の方がフォルニ家は代々お酢の醸造を生業としていたのでは?と勘違いされるが、そうではない。

伝統的なバルサミコ酢の醸造は商売ではなく、趣味である。

現在で言えば、フェラーリやランボルギーニなどスーパーカーを所有するような物だ。

というのも砂糖が普及していなかったその昔、甘味料は蜂蜜か、モストコット(葡萄の絞り汁を煮詰めた物)。それだって大変高価で、庶民には高嶺の花。

そんなモストコットを原料とし、屋根裏部屋に何年も寝かせてお酢に変える財力があるというのは一握りの人たちだけ。富を象徴とする高尚な趣味だった。そのトップが1450年から1860年の間、現在のモデナ、フェラーラ、レッジョエミリアを統治した エステ公爵。

モデナのドゥカーレ宮向かって左のプラート塔が醸造室 写真はモデナ市の観光案内よりお借りしています

バルサミコ酢の品評会など社交界にて催していたという記録があるから、エステ公国の王族、貴族、上流階級の家柄がこぞってバルサミコ酢を醸造していたことは想像に固くない。またバルサミコ酢は、ヨーロッパの王室の贈り物として用いられていたことが、エステ家の公文書に残されている。

ドゥカーレ宮の醸造室 内側から鉄の閂が二重にかけられるようになっている

また、公爵が居住していたモデナのドゥカーレ宮のバルサミコ酢の醸造室は、公爵の身を隠す場所としても使われて、分厚い扉と大きな閂が今でも残っているが残念ながら、歴史の大きな波に呑まれ、バルサミコ酢の樽は現在残っていない。

とてつもなく分厚い壁

私が嫁に来た、フォルニ伯爵家はエステ公爵家の側近であり、右腕として外務大臣を勤めていた。モデナ屈指の旧家でその歴史は1100年代まで遡る。公の側近とあれば、バルサミコ酢の醸造室も当然の如く存在するわけである。公の右腕として長く外務大臣を務め、政治手腕に長けていたような家系だから、家の主人は仕事で留守。バルサミコ酢醸造は奥さんと使用人に、任せていたと思うのが妥当であろう。

この絵でも身分の高そうな女性が屋根裏のようなところから、バルサミコ酢を取り出している。

もちろん、小作人に年間に必要なモストコットの指示をして、持ってこさせるというスタイルだったであろうけれど

というわけで、マックスの女性が面倒見ていたというコメントはあながち間違ってはいないのである。

が、小作人制度などとうの昔に廃止された21世紀、家の中を見回しても使用人など誰もいない。

使用人が色々身の回りのことをお世話してくれるような時代を過ごしたのは、お義父さんが成人するくらい前の話であろう。もっともお義父さんも政治には全く携わらず、モデナーミラノートリノで脳外科医として働いており、バルサミコ酢も屋敷の管理人がいなくなって、仕方なくというような成り行きだったようだから、喜んで若い2人にお願いする。というそういう流れだったのである。

そこまで考えが回らなかった私は、浅はかだったのであろうか?

次回に続きます。

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話#2

2005年、クリスマス休暇をマックス(主人の名前)のモデナの家に招待してもらっていた。

縁と言えばいいのか、バルサミコ酢の醸造室を見せてもらった次の日に、お客様がいらっしゃると言う。

なんでも、バルサミコ酢の商工会の会長で、現在バルサミコ酢が置いてある場所とは別に、長年倉庫となっている場所をバルサミコ酢の醸造室として活用できるかどうか?と見てもらうために呼んだんだそうだ。

興味津々で彼のお父さんと彼(主人)について覗きに行ってみた。なんでも1800年代の終わりまで養蚕をしていた部屋だそうで、南側と西側の上方に10cm四方の小さな四角い穴がたくさん空いた壁がある。その広い事!22m✖️8m1番高いところで5m低いところでも25m。太い木の梁に支えられた木の屋根裏部屋、その上は瓦が乗っているようだ。そんなだだっ広いスペースに使わなくなった家具が放置してある。埃っぽい空間。その中に大きなワインビネガーが入った樽が2つ放置されている以外何もない。

バルサミコ酢の権威とやらは、

「素晴らしい!天井も高くて、断熱材は入っていないし、方向も南西、この穴も全方向にないから空気の流れはあるけれど、風が吹き抜けることもないし、完璧です。放置しておくのは勿体無い!是非醸造室として活用されたら良いですよ。」

と興奮気味に話していた。

その後、お父さんと息子たちは、やっぱり使わずに放置しておくのは勿体無い。バルサミコ酢の醸造室として使うなんて、そんなの誰がやるんだい。

そんな彼の家族の様子を横から眺めていたが、まさかこの数年後に、遠く日本から来た私がバルサミコ酢の醸造を一から始めるとは誰も想像しなかったに違いない。

バルサミコ酢との出会いで人生が変わった?話 #1

伝統的な製法で作られたバルサミコ酢の出会いは、ちょうど主人と付き合い始めた2004年、ヨーロッパに住んで初めてのクリスマス。

当時ドイツに留学していた妹を訪ねて、ベルリン郊外の妹の友達のドイツ人の一家のおうちに招かれてクリスマスイブと、クリスマスを過ごし、妹は友人とどこかへ出かける予定があると言うし、クリスマスの飛行機代が格安で手に入ったから、クリスマスの夜にミラノに飛び、マルペンサからミラノの中央駅へバスで着く。

いつもよりずっと人通りのない夕方のミラノ中央駅。それもそのはず、なんとショーペロ(スト)で地下鉄、トラムは18時以降動いていないと言う。長蛇の列のタクシー乗り場に並ぶこと小一時間。

日本では1224日にクリスマスイブをなんとなく祝ったら、25日はどこもクリスマスツリーは取っ払われて、お正月飾りに代わるから、あまりクリスマスはどう言う日であるのか?移動がなぜ安いのか?など考えが至らなかったと言うのが大誤算だったわけである。

おしゃべりな運転手との世間話でショーペロするのがが正当(?)に思えてきた。

「そりゃ、ショーペロは当たり前だよ。クリスマスは家族と過ごすもんだろう。地下鉄やトラムの運転手だって、早退けして家族とゆっくり今夜は過ごしてるよ。俺だって、あんたで今日は最後だよ。家族が待ってるからねえ。あんたクリスマスにたった1人でかわいそうに。今外国から着いたんだろう?ミラノで過ごす家族はいるのかい?」と同情され、運転手の家まで引っ張っていかれかねない雰囲気だったから、「いやいやこれからイタリア人の家族と過ごすから大丈夫。見てこの大荷物全部クリスマスプレゼントよ。」と言っていたらやけに安心されて、空いてたからクリスマスプレゼントだよ!と低価格でミラノの家まで乗っけてもらった。

こんなミラノの家があった。小さな家だったけど、日当たりが良くて、居心地が良かった。Airbnbで貸していたけど、戻ることもなくなって売ってしまった。

実際は10世帯以上が入居しているアパートの住人がどこも留守という、バカンス時期のミラノの家で1人悠々と過ごしたのだった。

サッパリなドイツ語、ドイツ人ファミリーの中で散々クリスマスを過ごした数日間で疲れていたから、たった1人で過ごすのは開放感大だったと言うのが本音。

とはいえ、次の日列車でモデナへ

1人で過ごすクリスマス休暇は1人じゃかわいそうだから、うちにおいでよ。」と当時付き合っていた主人に誘われ、今住んでいるモデナの家に招かれていた。

モデナ駅まで、主人と義弟が車で迎えにきてくれて、その足で大聖堂のSanto Stefano(聖ステファノ)のミサに連れて行かれ、ヨーロッパ人はなんてミサに行くのが好きなんだろう。と感心したのだけど、それは敬虔なクリスチャンの家庭だからと言うのを結婚してから知った次第である。

1週間ほどモデナに滞在したのだけれど、その時お義父さんに、代々受け継がれているバルサミコ酢の樽を初めて見せてもらった。

今から20年近くの話ですから、日本にはシャバシャバした工業製品のバルサミコ酢なるものが入ってきたか,来ないかそんな当時。甘くて黒いイタリアの酢。くらいにしか考えたこともなかった私。どんなふうにバルサミコ酢を醸造しているかなど、考えもしなかった頃。

冬のモデナは、太陽の国イタリアの名前を返上したくなるような、濃霧。

400年前に作られたと言う重厚な煉瓦造りの建物の鉄階段を滑らないように上がり、観音開きの間抜きがかかった木の扉を開けた瞬間に、香りに圧倒される。

電気をつけなければ、昼間でも真っ暗な屋根裏部屋の中には、9つの大きな樽のセットが並んでいました。パッと見ただけでも、1020年と言う古さの樽でないとことは一目瞭然。

なんだか真っ黒な樽の匂いを嗅いでみてと言われ、恐る恐る顔を近づけると、立ちすくむような不思議な香り。お酢だと言うのにものすごく複雑な香りで、それまで私が食べたことのあるバルサミコ酢というものとは全く違うものがそこにはありました。

家の中に戻ると、小瓶に詰めた真っ黒な樽から採った真っ黒なドロリとした液体を味見させてもらいまたびっくり。ものすごい芳香と、優雅な甘さ、後から来る酸味。さらりと姑に200300年前から使っている樽だからね。と私の拙いイタリア語の理解で、年数を聞き間違えたと思い聞き返したら、どうやら間違いではないらしい。気に入ったかい?とお土産にバルサミコ酢の小瓶までもらったのが本物のバルサミコ酢を知った瞬間。

ここから人生が変わったのかもしれない。

続きます。